Q) 改めてご経歴を伺えますか?
A) 大学では、専攻は文学部、美術史を学んでいました。就職活動をしていた頃はバブル期でしたので、完全な売り手市場でした。美術史や音楽などの芸術に興味があったのでその延長として出版関係の仕事をしたいと思いましたが、やはり出版社の人気は高く受かりませんでした。それでも自分で何か作る仕事がしたいと思い、180度方向転換してIT会社に入社し、最初はプログラマーから、SEのような仕事を1年間やりました。この仕事では、新しい知識が身に付くことが新鮮で楽しかったのですが、会社の雰囲気が合わないところもあって、1年で辞めてしまったのです。
次の就職先を探しながら気がついたのですが、経理の求人は中途でのニーズも多く、「年齢問わず」と書いてあるのです。私にとって、仕事は一生続けるものだと思っていましたので、経理職に臨んでみようなどと、ひらめいてしまいまして(笑)。日立化成の中途採用の面接の際には、当然ながら、「ITの部門があります、そちらはどうですか?」と聞かれましたが、「嫌です、絶対に経理希望です」って、経験もないのに根拠のない自信と若さゆえの強引さで押して、たまたま辞められる方がいたので、下館工場の経理として就職することができました。指導していただく先輩が半年で辞めるという予定だったので、毎日必死でしたし、聞ける人がいなくなるので、すべて覚える必要がありました。今みたいにパソコンなどない時代ですから、それこそ手計算でいわゆる簿記を習得しました。そのおかげで経理とはこういうことなのかと、基本が身についたと思います。
その工場には10年間おりまして、経理の中でも、3~4年おきに新たな仕事の内容経験させてもらえましたことは、その時の上司のおかげです。その頃に関わった何人かの経理部長は当時としては革新的な考えをお持ちでした。
一人は、アメリカ駐在から異動してきた上司で、先ず、古くから残る工場の文化を変えてしまったんです。それまでお茶くみは女性がやるのが当然でしたが、お茶くみもタバコの吸殻の片付けに関して、「女性だって男と変わらずに残業だってしている。飲みたいヤツ、吸うヤツが自分でやれ」と鶴の一声がありまして。その日からスパーンと無くなったのです。平成の初めの頃のことでした。
また、私がいた工場の製品を、マレーシアのジョホールという都市を拠点にして製造することになったのですが、設立1年目の決算を締めるために、どうしても日本からの応援が必要という事態になりました。当時の私は29才で、会計業務のひとつの固定資産を中心にした資産管理をしていたのですが、その部長から、「マレーシアにすぐに行け」と指令を受けました。海外旅行もしたことがなかったので、冗談かと思ったのですが、「パスポートは取ったのか。それと電卓さえ持っていけばいいから」と言われ、ついでにスーツケースを貸してくれまして、一応は辞書も持って飛行機に乗りました。しかし、いつ帰れるのか聞かされずに、です。ビザは取っていかなかったので、長期ではないことは確かでしたが、年度末決算時期の3月に行って、5月のゴールデンウィークまでいましたね。
Q) 当時からしたら、きっとちょっとした事件ですね。周囲の反応はいかがでしたか?
A) 当時の工場長は、「女性が行って大丈夫なのか」と言っていましたし、本当にありえないという雰囲気でした。ただ、日本も決算を締める時期でしたから、私より上の立場の人を出せなかったという事情もあったのです。これが、自分が大きく変わるきっかけとなる最初の出来事でした。マレーシアは英語文化で、会話はもちろん請求書も全部英語ですから、現地の経理担当者とは、筆談や片言の英語で会話をして仕事をしました。もう15年以上前の事なのですが、「あぁ、これからは絶対に英語が必要だ」と気づいて、帰国後すぐに、休日に遠くの英会話学校まで習いに電車で通い始めましたよ。
この時に気付いた事がもう1つあります。マレーシアでは女性たちは男性と変わらずに重要なポストにつき活躍していました。その姿に、自分のキャリアをどうすればいいのかなと考えさせられるきっかけとなりました。
当時の日本の工場では、一般的に経理のイメージにある入出金や給与計算が女性のメインの仕事でした。しかし、先ほどの上司とはもう一人別の方で、後に着任された経理部長も、この流れを変えてしまう改革的な方だったのです。私に、これまで経験してきた会計業務から、工場の製造原価計算やその予算立て、業績管理といった管理会計と呼ばれる業務に担当を変更させたのです。当時は、日立化成全体の経理を見渡しても、この管理会計は女性がやる仕事ではなく、男性の仕事でした。出納、給与を担当している女性はいましたが、現場サイドの業績を扱うとなると、女性はアシスタント的な役割のみで、一人が一つの製品を責任持って担当するということはありませんでした。この経験をさせてくれた上司にも本当に感謝しています。この経験が無ければ、この海外製造拠点の経理業務に臨むのは厳しいでしょうね。最近お会いした際、この元上司曰く、この頃の私の口癖は「私のキャリアをどうしてくれるんですか」だったらしいです。私には言った記憶がないのですが。ただ、組織が大きいと仕事はどうしても分業になるので、経理も細かく担当が分かれていて、経理全てを把握できません。それが自分にとってとても不安でしたし、万が一、この会社を辞める事情があって他の会社に入ることになった時に、経理マンとして通用するとは思えなかったのです。
その後も、その上司のおかげで、工場経理から男性数名と私を本社に呼び寄せてくれ、さらに新たな仕事をやらせていただくことになりました。転勤で本社経理の仕事を経験できたことで、ようやく経理全体の業務が繋がって理解ができ、大きな自信にはなりました。
声に出して、色々経験したいと希望を言ったのも良かったとは思いますが、私は本当に上司に恵まれていると思います。今でも感謝の気持ちでいっぱいですね。