この原稿は2009年5月時点のものです。
【キャリア・プロフィール】
上智大学外国学部ポルトガル語学科卒業。雇用機会均等法が施工された1986年に就職活動。だが実情は、地方出身、総合職、女性という3拍子のハンディのため、受入れ先は少なく、そうしたなか87年新日本製鐡?に入社し、人事部配属。鉄の会社に入ったからには鉄の現場を知りたいと工場勤務を志願。3年後君津製鉄所に配属された。2年間作業服、ヘルメット姿で製作現場の仕事に携わると同時に、日々変化する世界のマーケット動向にも向き合う。1991年8月ゴルバチョフ政権が倒れ、ロシア向けの製品が8割だった工場の生産ラインは一時ストップし、その対策に追われるという体験もする。また勤務管理が厳しい工場では夜はブランインドを閉め、隠れて残業をしたこともしばしば。2年後本社に戻り、海外営業部に配属されて東南アジア向けの仕事を担当。営業部門では女性初の管理職に。君津工場時代に社内結婚。
Q) パートナーの仕事への理解は。
A) 仕事に理解があるというよりは、私の仕事に対する考え方とか、私自身の生き方に理解があります。それとお互いがどんな環境の中で仕事をしているかということはよく理解しています。
Q) お子さんを持たれたのはいつ?
A) 海外営業をしているときに出産したのですが、その頃は海外出張が多く、商社の尽力でようやくイランへのビザが採れたときに(女性のビザ申請は難しかった)妊娠がわかりました。その頃は仕事が面白くて、子供を持つ心の準備ができていなかったので、びっくりしました。一瞬、頭の中が真っ白になったのですが、「来年の1月には可愛い赤ちゃんが生まれるわよ」という産婦人科の先生の声が背中を押してくれ、すべての出張をキャンセルして、仕事もスローダウンして産みました。34歳で、年齢的にもいいタイミングでした。当時は中国マーケットに力を入れ、その結果も出てきていた時でしたが…。
Q) よく決心されましたね。
A) お腹に命が芽生えると、自然にそれを育みたいという気持ちになるものなのですね。1人目を産んだ後は国内営業に変わり、39歳のときに2人目を産みました。最初は1年間、2回目は6か月育児休職しました。育児明けは、新会社設立の準備班に配属されて、総務的な仕事をすることになりました。上司は「リハビリをしていて」と…。子供を2人産んで、これからは仕事に邁進したいという気持ちがあったの、会社の思いと私の思いがすれ違い、転職を決意しました。やはり営業的な、第一線の仕事をしたかったのです。
といっても、39歳で子供が2人、かつ下の子は1歳にもなっていないという状況で履歴書を出しても、なかなかいい仕事はありませんでした。そのなかで帝人は女性管理職を一定確保するために中途採用を行っており(後から知ったことですが)、営業の経験を買われて購買部門の課長ということで採用が決まりました。社内には非常に自由で公平なカルチャーがあり、また会社側の努力があります。私は子育てをしながら仕事をしていますが、職場の方にも理解を得られています。